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Chu Asai

浅井 忠

明治維新後の急激な西欧化にともない導入された西洋画法にいち早く触れた一人。
師フォンタネージよりバルビゾン的表現を吸収した浅井忠は、堅実な写実で日本の風土を鮮明に描き出し、日本近代洋画の先駆者となった。作品から溢れ出る品格や確かな技術力は圧倒的であり、油彩画・水彩画ともに質の高い作品を数多く残している。文豪夏目漱石も浅井の作品に感銘を受け、自身の小説にも浅井作品を登場させている。後年は京都へ移り、工芸の図案に親しむなどして幅広い表現に取り組んだ。
また教育者としても名高く、聖護院洋画研究所、関西美術院を設立し、梅原龍三郎や安井曽太郎を含めた多くの芸術家たちを輩出することとなった。

略歴

1856年
佐倉藩士浅井常明・きりの長男として、江戸木挽町佐倉藩邸に生まれる。
1863年
藩侯堀田正睦に仕えた父が死に、7歳で家督をつぐ。
佐倉時代に藩の画家黒沼槐山に花鳥画の手ほどきをうけ、藩の大学にて漢籍の素養を身につける。
1872年
この頃洋学を修めるため上京、箕作塾で英語を学ぶ。
1876年
ロンドン帰りの国沢新九郎の画塾彰技堂に入門するも、工部美術学校に入学。
バルビゾン派風フォンタネージに学び画風を受け継ぐ。
1878年
フォンタネージの帰国後、小山正太郎らと連袂退学し十一会を結成。
1887年
洋画の出品が認められた東京府工芸品共進会に「農夫帰路」「寒駅霜晴」を出品、二等賞を得る。
1889年
洋画振興のため明治美術会の創立に参画、出品。
1894年
日清戦争で時事新報通信員として従軍。
1895年
第4回内国勧業博覧会に「旅順戦後の捜索」出品。
同年秋の明治美術会第7回展では「脂派」と「紫派」、「旧派」と「新派」など明治美術会と黒田との対照が取り沙汰される。
1898年
東京美術学校教授に就任。
1900年
フランスに留学、グレーを中心に滞在、印象派的な水彩・油彩を制作。
一方、アール・ヌーヴォーにも触れる。
1901年
秋から翌年まで和田英作とグレー村にて逗留。
1902年
ロンドンの夏目激石を訪ねて帰国、東京美術学校を辞し京都高等工芸学校教授。
その後、聖護院洋画研究所や関西美術院で梅原龍三郎、安井曾太郎など指導。
1905年
東宮御所造営に際し壁画として「武士の山狩」を制作。
1907年
第1回文展に「武士の山狩」を出品。審査を終えて帰京後に倒れ、12月に歿。享年51 歳。