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Kunitaro Suda

須田 国太郎

日本人画家の殆どがパリへ向かうなかスペインに赴き、ヴェネチア派やバロック絵画を独学で研究した。
長きに渡る美学への追求の末、41歳のときに初めて開いた個展で大きな反響と高い評価を得る。
西洋絵画の根幹から学び得た理論を背景に、黒を基調とした重厚な色彩とスクラッチを繰り返すことで現れる独特の絵肌が幽玄な須田芸術を無二のものとした。
制作の際にはネクタイを付け正座をして臨むような高潔な人格であったと言われる。真摯な姿勢と広い学識から生み出された精神性の深い作品は高く評価される。

略歴

1891年
京都市に生まれる。須田家は「かね大」の屋号を伝える近江商人。
1910年
油絵を描きはじめる。また、金剛流高岡鵜三郎に師事し謡曲を習う。
1916年
京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)を卒業。
1917年
関西美術院に入学し、都鳥英喜らにデッサンを習う。
1919年
渡欧。スペインのマドリードに居をかまえ、欧州各国を歴訪。各地で制作する。
この4年間の外遊中に、児島虎次郎、黒田重太郎、里見勝蔵、川口軌外らと出会い、 教えを受けたり交友をかわしたりした。
1923年
帰国。京大美学会における美学美術史研究並びに討論へ参加を始める。
1925年
和歌山商業学校講師となり、美術工芸史を担当する。
1930年
京都市左京区のもと津田青楓アトリエへ転居する。
1932年
京都帝国大学文学部講師となり、ギリシャ彫塑史を講義する。
41歳、資生堂画廊にて初個展を開く。
1934年
京都帝国大学文学部講師を辞任する。小林和作とともに独立美術協会会員となる。
1937年
岐阜、高山、福井、北丹後の筆石、浜中などに旅行し制作する。
1940年
「歩む鷲」が文部省買上げとなる。
1942年
満洲国美術展覧会の審査員となり渡満。
1943年
文展審査員となる。四国各地を旅行し制作する。
1945年
体調を崩し、北陸に滞在し静養する。
1946年
京都帝国大学工学部講師となる。日展審査員に挙げられるが辞退する。
1947年
日本芸術院会員となる。
1948年
京都市立美術専門学校、大阪市立工芸高等学校美術科講師となる。
以後数年、玉島・神辺・岡山・四国などを旅行し制作する。
1952年
京都国立博物館評議員となる。
1957年
北川民次・須田国太郎2人展を開く。
1959年
第10回毎日美術賞受賞。入院中も特製の画架をつくり、制作に励む。
1960年
京都市立美術大学名誉教授の称号を受ける。
1961年
京大付属病院で歿。享年70歳。